Yusuke Ishii. Vytautas Bacevičius. Selected Piano Works LP

  • 2024 m. liepos 7 d.

多くの日本人にとってリトアニア共和国は未だ馴染みがないかもしれない。

20世紀初頭、まだロシア帝国の強権的な支配下にあったリトアニアでは、日本が日露戦争に勝利したことを受け、1906年にステポナス·カイリースが『日本の過去と現在』、『日本国憲法(明治憲法のリトアニア語訳)』、『日本人はどのように暮らしているか』の3冊から成る日本論を出版した。また、第2次世界大戦下に杉原千畝がユダヤ人難民に大量の通過査証を発行したのが、当時リトアニア·カウナス駐日本領事館だったことなど、歴史的に見れば、ぽつぽつとリトアニアと日本の繋がりを見つけることができる。

近年では リトアニア人作曲家作品が日本で紹介されたり、2023年にはヴィリニュス市700年記念に作曲家細川俊夫氏が新作を提供するなど、音楽文化を通じた交流も高まっているが、日常的にバルト三国の中でもっとも南に位置するこの国の名を聞くことは多くない。

そもそも、この国の近代音楽の歴史は決して長いとは言えず、しばしば苦難の多い道を辿っている。リトアニア近代芸術の基礎は、音楽、絵画の両方面で才能を発揮したミカローユス·コンスタンティーナス·チュルリョーニス(1875~1911)によって築かれた。彼の芸術的貢献によってリトアニアの近代音楽が幕を開けたと言っても過言ではないだろう。日本においては、彼の作品は既に60年代から紹介されている。

20世紀に入り、1940年にリトアニアがソビエト連邦へ併合されると、社会主義レアリズムの名の下で自由な表現を奪われた作曲家たちは、1930年代ごろのスタイルまで「退化」することを余儀なくされた。西側の最先端の現代音楽の録音、楽譜、作曲技法などはしばし、亡命した知り合い、友人から送られてきたもの、もしくは「ワルシャワの秋」等の現代音楽際に参加する機会に恵まれた作曲家が密かに持ち帰るなど、リトアニア人作曲家が手に入る情報は非常に限られていた。そのような状況下でもブロニウス·クタヴィチウス(1932–2021)、オスヴァルダス·バラカウスカス(1937–)、フェリックサス·バヨーラス(1934–)のような一部のモダニストたちは限られたリソースとリトアニアの民俗音楽などからのインスピレーションを得て、独自の表現を探し続けたが、ゴルバチョフ時代になっても依然として西側からの情報をブロックしようとするKGB監視は徹底していた。

しかしソ連が侵入するまでの戦間期(1918~1939)は、リトアニア近代音楽が急速に発展した時期であった。

1918年の独立を機に国は一気に近代化を推し進めた。近代化の気運は芸術文化にも波及し、政府の奨学金で様々な芸術家が、当時の最先端の芸術の都であったヨーロッパの各都市にて学んだ。この時期に活躍した作曲家として、ベルリンおよびリガで研鑽を積んだヴラダス·ヤクベナス(1904~1976)、プラハで学んだイェロニマス·カチンスカス(1907~2005)、そしてパリで学んだヴィータウタス·バツェヴィチウス(1905~1970)があげられる。これらのモダニスト作曲家たちはソビエトのリトアニア侵攻および、第2次世界戦勃発によりいずれも移住を余儀なくされた。

バツェビチウスは日本も含め、世界的に見ても無名だが、チュルリョーニスに次いで、リトアニア音楽史における重要な作曲家である。

バツェヴィチウスは1905年ポーランドのウッチで、ポーランド人と母とリトアニア人の父の音楽家の家庭に生まれた。日本では5歳下の妹グラジナ·バツェヴィッチ(1909~1969)の方が、知られているかもしれない。1926年家族とともにリトアニア·カウナスに移住。この年はバツェヴィチウスにとって実りの多い年で、創作意欲に溢れたまだ若い作曲家は翌年パリに向かうまでの間に初期のピアノ作品(プレリュード第1番 op. 3、 ソナタ第1番 op. 4、黙想のポエム op. 7、神秘のポエム op. 6、 星気のポエム op. 7)立て続けに作曲している。翌年1927年から30年までパリにて研鑽を積んだ。後に妹グラジナ·バツェヴィッチもパリに留学しているが、エコールノルマル音楽院でかの有名なナディア·ブーランジェに師事した妹と違って、兄ヴィータウタスはパリ·ロシア音楽院にてニコライ·チェレプニンに師事した。このようなややマイナーな経歴も無名さに関係しているのかもしれない。

1931年にカウナスに戻ったバツェヴィチウスはカウナス音楽学校(現在のユオザス·グルオディス·コンセルヴァトワール)にて教鞭をとる一方、作曲家およびピアニストとして精力的に活動した。この時期には大規模編成の作品を作曲している。(オペラ「ヴァイディリゥーテ」op. 11(初演に至らず)、ピアノ協奏曲第1番 op. 12、2番 op. 17 他)。1937年リトアニアが国際現代音楽協会ISCMに加入すると、バツェヴィチウスはリトアニア支部の代表に選ばれた。

優れたピアニストでもあったバツェヴィチウスは、作曲活動と並行してヨーロッパの各都市にて演奏活動を行った。パリでフレンチ·ピアニズムを受け継ぐサンティアゴ·リエラに薫陶を受けた彼の腕前は、いわゆる「作曲家のピアノ演奏」のレヴェルを遥かに凌ぐものであった。1938年には、ブリュッセルで開催された国際ウジューヌ·イザイピアノコンクールの審査員に招かれている。審査員のメンバーにはカサドシュ、ギーゼキング、ルービンシュタインなど当時の名だたる巨匠が並んでおり、バツェヴィチウスが将来を嘱望されたピアニストであったことが伺われる。ちなみに同じウッチ出身のルービンシュタインとはパリで知り合い、同じ時期にアメリカに渡航するなど、交流も深かったようだ。

バツェヴィチウスの人生は1939年に大きな転機を迎える。この年、コンサートツアーで南アメリカ滞在中に第2次世界大戦が勃発、さらにリトアニアがソビエト連邦に併合されるとバツェヴィチウスはリトアニアに引き返すことができなくなり、翌年ニューヨークに船で到着、以後アメリカでの生活を余儀無くされる。

バツェヴィチウスはアメリカ移住後も積極的にヴィルトゥオーゾピアニストとして活動した。かの有名なカーネギーホールをはじめ、アメリカ各地での数々のリサイタルがそれをよく示している。ただし、大戦の影響で西側諸国から音楽家が大量に押し寄せてきた当時のアメリカの音楽シーンは、巨匠ヴィルトゥオーゾから新進気鋭の作曲家まで、名だたる音楽家でかつてないほどひしめき合っていた。そんな中、目立ったキャリアや音楽業界へのツテもなく、同国人の支援を頼るしかなかったバツェヴィチウスがアメリカの音楽シーン第一線で活躍できるチャンスは少なかったであろう。移住後はニューヨーク·コンセルヴァトワール、ブルックリン音楽院、ロング·アイランド音楽院などで、主にピアノ教育者として生計を立てていた。

ピアニストとして大活躍するに至らなかった一つの理由は、アメリカ移住時の彼の政治的なオリエンテーションのミスによるものが大きい。当時のアメリカにはすでにソビエト連邦に侵略された当時のリトアニアから大量に難民が流入し、すでにリトアニア人ディアスポラが形成されていた。ただしリトアニアがソ連に併合されてからは、リトアニア人の中にも共産主義派が存在しており、政治に無関心でナイーブな音楽家であったバツェヴィチウスは図らずとも、親ソ連派のリトアニア人の支援を受けることになった。実際、彼の非公式での最初のアメリカでのコンサートはニューヨーク駐ソヴィエトの在外公館で行われている。このことは、以後のアメリカ時代の彼のキャリアに決定的なダメージを与えることになった。以後バツェヴィチウスは生涯を閉じるまで、まともにリトアニア人の支援を受けることはなかった。

ほぼ孤立無援の状態であったにも拘わらず、アメリカでも彼の創作、演奏活動も止むことはなかった。リサイタルのプログラムには常に自作を取り入れ、そのためにコンスタントにピアノ作品を書き続けている。作曲家自身、この時期の大半の作品を「妥協した作風」と呼んだように、40年代50年代のバツェヴィチウスの作品は、以前に比べて簡素な語法を用いたわかりやすいものになっている。ときおりジャズを思わせる響きが織り込まれているのも面白い。

活躍するに至らなかったもう一つの理由は、本人の性格によるものと思われる。幼少期から神童として育てられ、戦間期のリトアニアでバツェヴィチウスに肩を並べる作曲家、ピアニストはいなかった。「天才」「時代の先駆者」などの賞賛の言葉を幾度となく浴びていた彼が、様々な場面でやや唯我独尊ぶりを思わせる発言や振る舞いをしたのは驚くに値しない。

例えば家族に宛てた手紙の中で、自分の作品がいかに時代を先取りしているか、その独自性について幾度となく言及しているが、自作のスタイルのアナクロ性を指摘されたことに憤慨し、楽譜の返却を要求するなど、感情的な発言も見られる(1958年4月26日付けの手紙にて)。また名だたる音楽家や支援者に数々の手紙を送り、コンサートや自作が演奏される機会を積極的に打診する一方、思ったような演奏·創作活動ができないことにしばし苛立ちを露わにした(1946年には当時の合衆国大統領トルーマンにまで陳情の手紙を書いている)。彼の発言·行動はしばし人間関係を悪化させた。これにはアメリカ文化を受け入れられず、永住権なしに自由に国外に出ることもできない不安定な生活も大きく影響していたと思われる。アメリカ時代には幾度となく移住を計画、1955年には知人を通してイラン政府へ国籍取得を打診する手紙を送る一方(1955年10月5日付の手紙にて)、妹に宛てた手紙ではポーランド帰化を仄めかしている(1958年9月9日付けの手紙にて)。合衆国永住権を取得した1961年および翌年パリに滞在。当時のヨーロッパ現代音楽シーンに名を馳せていた作曲家の作品に触れる機会となったこの旅行は、以後の彼の作風に決定的な影響を与えた。オリヴィエ·メシアンの作品を激賞し、メシアンの仕事先のトリニテ教会まで行くものの、本人に会うことは躊躇している。先ほど述べた唯我独尊ぶりに比べると理解に苦しむ行動だが、実際のバツェヴィチウスは、かなり内向的な人物であったようだ。後年、愛好する作曲家としてあげていたメシアン、ジョリヴェ、ヴァレーズ等の作品はこの旅行を通して知ったようだ。60年代は、折衷妥協の作風を一転し、スクリャービンの神秘主義を独自に発展させた「宇宙音楽」を提唱した。この時期の彼の「宇宙的な」創作スタイルには前述のメシアン、ジョリヴェ、ヴァレーズ等の影響のほか、当時のアメリカでブームになりつつあったニューエイジやスピリチュアリズムも関係している。オカルト本なども好んで読み漁っていたバツェヴィチウスは神秘主義者クロード·ブラグドンの著作「Yoga for you」にのめり込み、ブラグドンのコンセプトを元にした壮大な交響チクルス「Sahasrara Chakra」を計画。スクリャービンの「ミステリウム」とのアナロジーとも思えるこの作品は、残念ながら彼の生存中には実現に至らなかった。1969年に最愛の妹グラジナが他界、本人も翌年1970年ニューヨークで亡くなっている。

バツェヴィチウス自身、自分の作品の作風の変化によって5つの時代に分けている。

1926年まで:初期。学生時代の作品。スクリャービンの影響が色濃く見られる。

1926−1940年:無調、表現主義の時代。個人様式の結晶化。

1940−1956年:聴衆とのコミュニケーションのため、わかりやすさを目指した、アメリカ移住時代の折衷妥協の作風時代。

1956–1966年:初期の独自の作風への回帰。

1966−1970年:宇宙的なスタイルの時代。内的な宇宙、無意識の世界をリソースとした作曲。

ただしこれは作曲家自身によるものであり、時代ごとにはっきり区切ることができるわけではない。例えば、1926年から27年にかけて作曲された一連のピアノ作品は、無調や表現主義に足を踏み入れていないものの、まだ若いバツェヴィチウスが、パリで時代をリードする作曲家(ストラビンスキー、プロコフィエフなど)の作品に触れる前のオリジナリティに溢れた傑作であり、初期の作品とはいえすでに個人様式が形成されている。また、バツェヴィチウスの宇宙的なスタイルに決定的な影響を与えた1961–1962年のパリ滞在の前後では明らかに様式の違いが見られる。バツェヴィチウス自身、様々な書簡の中で「無調」「表現主義」の2語を多用しているが、彼の作品の多くは完全な無調ではないし、表現主義的な要素は一部にとどまる。20世紀前半のヨーロッパでは無調や表現主義は前衛作曲家のトレードマークであったが、戦後になっても、まるで時代の潮流に全く無頓着であるかのごとく、バツェヴィチウスは20世紀初頭の前衛のトレードマークにこだわり続けた。

バツェヴィチウスの音楽は、戦後のリトアニアでは政治的な理由からしばらくの間注目されることはなかった。彼の作品が本格的に演奏されるようになったのは、1989年に行われたディアスポラの作曲家に焦点を当てた音楽祭「Sugrižimas」以降である。2005年には、バツェヴィチウスの生誕100周年を記念して、彼を特集した国際学会やコンサートが多く開催され、バツェヴィチウスの名は広く知られるようになった。この時期にはCDや楽譜の出版も行われた。

バツェヴィチウス自身がピアニストであったことから、作品はピアノ·ソロが大半を占め、それらは彼の作風や特長を最もよく反映していると言って良い。作品はユルギス·カルナヴィチウス、アンドリウス·ヴァシラウスカス、ガブリエリュス·アレクナなどのピアニストによってしばしば取り上げられている。

このアルバムには、スクリャービンに影響下にある初期から前衛的なカウナス時代、わかりやすくやや新古典的なアメリカ時代、さらに「宇宙音楽」を提唱した晩年の直感的な神秘主義に到るまで作風を次々と変化させていったバツェヴィチウスの作品が一望できるプログラムが収録されている。一方、今まで演奏·録音されてこなかった作品を取り入れようという選曲の意図から、今まで幾度となく演奏·録音されてきた一部のバツェヴィチウスの作品、例えばピアノのためのポエム等をプログラムから外すことになったことは遺憾であるが、このアルバムが、時代の波に埋もれたとも言えるバツェヴィチウスの音楽を知るきっかけとなれば幸いである。

プレリュード第1番 op. 3(1926)は、わずか21歳の作品。まだ若き作曲家の才気に溢れたこの作品には、ワーグナーの影響が垣間見えるが、同時に後のバツェヴィチウスの独特な語法の萌芽も既に見られる。2つのグロテスク op. 20(1934)、瞑想 op. 29(1937)は、カウナス時代の作品。前者はドイツ表現主義的なスタイルを特徴としているのに対し、後者はフランス20世紀音楽の語法と作曲家自身のスタイルが融合し、独特な和声のアマルガムが形成されている。アメリカ時代の作品であるトッカータ op. 46(1948)では、バツェヴィチウスを魅了したプロコフィエフを連想させるモーター的な動きが見られる。一方、同じ時代に書かれた悲しき歌 op. 56(1954)では50-60年代のフリージャズの語法を思わせる要素が聞かれる。

アメリカ時代は作品の献呈を避ける傾向にあったバツェヴィチウスであったが、組曲第3番 op. 60(1956)は例外的に兄のケストゥティスに捧げている。アメリカ時代の特徴的なロマンティックな表現は避けられ、より透明感のある響きと洗練された簡素な書法により抑制の効いたスタイルへの転機になった作品。

第6の言葉 op. 72(1963)はいわゆる「宇宙音楽」の時代の作品。明らかに戦後の前衛作曲家の影響が見られる。ピアノの楽器の特性をうまく利用したピアニスト·コンポーザーならではの点描的な書法と流動的な時間感覚で、バツェヴィチウスは自身の内的宇宙世界を表現しようとした。その空間的なテクスチャーの中に、時折、音楽学者M. ヤニツカが指摘した、バツェヴィチウスの作品に普遍的に現れる「運命のモチーフ」がエコーのように聴かれる。